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SORA tabi NIKKI

【知らない記憶SS】知らない言葉

 きょうも声が走っている。

 テレビのアナウンサーが報じるニュース。すれ違う人の会話。店内アナウンス。様々な言葉が、日常に溢れている。

 そう実感するようになったのは、この仕事に就いてからのことだ。

 清澄白河の高層マンションの一室に、音谷反訳事務所はある。

 仕事場になっている広いリビングの窓際のダイニングセットが俺の作業場所となっている。部屋の片隅にはなぜ畳が敷かれ、所長の音谷久呼はそこに座して、麗しく高速打鍵をしているのが常だ。

 テープ起こしなんていう仕事があることすら知らなかった早春に、ある事情から一本のテープを起こすことになった俺は、その仕事に第二の人生を見いだしてしまった。

「気付くと、声を頭の中でタイピングしているんですよね」

 事務所に到着し、朝礼が始まるまでに俺はコーヒーを淹れる。湯を慎重に回しかけながら、雇い主に問いかけた。

「久呼さんはないですか、そういうの?」

 きょうも着物姿の彼女は、背を向けたまま応じる様子はない。

「職業病っていうやつだねー。テープ起こしならではなのかな? 丹羽くんも成長したねー」

 代わりというように、調臣さんが穏やかな笑い声をあげた。編集者兼久呼さんの幼なじみ的な存在である彼は、テープ起こしの仕事があってもなくても、たびたび事務所を訪れる。

 その手にほぼ毎回、美味しいものを提げてくるので、歓迎すべきなのか否かを悩んでしまう。

「頭の中でタイピングって、どういう感じ?」

「起こしの作業そのままですよ。聞こえてきた声を、想像のキーボードでタイプするんです。でも想像の中でも、指が追いつかなくなっちゃうんですよね。まだキーボード配列覚えきってないからでしょうか」

「ひぃちゃん、何かコツとか教えてあげなよー」

 畳のふちにあぐらをかいている彼は、久呼さんの肩を気軽に叩く。その気安さを見るたびに、ひやひやしてしまう。最終的に爆発させているのは、主に俺のような気がするから。

 久呼さんは、いつもの無表情で振り向き、ぶっきらぼうな口調で問うてくる。

「あんたは単語登録を活用してる?」

「え? 登録?」

「あー、あれは便利だよねぇ。仕事とかで使ってなかった?」

「仕事……ショートカットキーとかは使ってましたけど」

 久呼さんは立ち上がると、俺の使っているパソコンの前に座る。

「もちろんタッチタイピングの早さも重要だけど、早さを突き詰めるなら、いかに押すキーを少なくするか考えたほうがいい」

 最後の一滴が落ちきるのを待って、俺もパソコンの前へと向かう。

 それぞれのマグカップに淹れ立てのコーヒーを注ぐと、久呼さんは少し目を細めて息を吸い込んだ。彼女なりに香りを堪能しているらしい。

「便利そうだなあとは思うんですが、いざ登録しようと思うと、何を入れておけばいいのかわからなくなっちゃって」

「個人のやり方次第だけど、よく使う言葉を単語登録しておくのが一つ。次に、専門用語」

 パソコンを操作する久呼さんの横で、ディスプレイをのぞき込みながら、ふむふむと頷く。

 調臣さんも椅子に移り、原稿をめくりながらコーヒーをすすり始める。

「そのときのテープに多用されてる言葉とか、すぐ登録しちゃえばいいんですね」

「そうだね。次の原稿で検索の邪魔になったら消せばいいし」

 ただ、これは自分専用のパソコンではない。例えば事務所で打ち合わせがあるときに使うこともある。要は応接用のものでもあるのだ。

 その躊躇いが伝わったようで、彼女は呆れたように溜息を漏らす。

「見られて困るような言葉を登録することなんかないでしょう?」

「それは、当たり前です!」

「別に気にすることはないんじゃない? それとも丹羽くん――」

「調臣さんの言うようなことは絶対ありません!」

 隙あらば俺で遊ぼうとする調臣さんの言葉を遮るが、彼は涼しい顔をして続けた。

「それを一歩踏まえて、師匠から何かアドバイスしてあげたら? ひぃちゃん」

 それはぜひとも聞きたいところだ。

 テーブルに身を乗り出す。久呼さんはそうだねと呟いて立ち上がる。テーブルに戻ってきたとき手に持っていたのは、見覚えのある灰色の紙束。最近は遠ざかっていた新聞だ。

 テープ起こしと新聞、音声と文字……首を傾げた俺に、彼女は淡々と続ける。

「知らない単語を聞いても、頭の中で結びつかないでしょう。知識が増えれば、それだけ脳内の変換が早くなる」

「な、なるほど。確かに知っていたらそのときに検索しないで先に進めますもんね」

 頷きつつも、おこなってきた仕事のことを思い出す。

 確かに新聞記事になるような内容のものもたくさんあった。政治・経済・医療から芸能まで。幅広い分野の知識を持ち合わせなければ久呼さんのようなプロになれないのか……そう思うと、道のりの遠さに目眩がする。

 とはいえ、「こうなりたい」という理想の体現に出会ってしまった以上、そこを目指してしまうのは仕方がないことだろう。半端なことはしないと決めたのは自分だ。諦めて前へ進むしかない。

 ずいぶん久しく読んでいなかった。就職のときはあれほど読んでいたのに、最近ではウェブニュースやテレビをチェックするばかりだ。

「俺も読んで勉強します。聴くのと同じ早さで起こしができるように」

 そして、いつか『テープに秘められた想い』を一度で聴き明かせるようになってやる。……久呼さんのように。

 新聞を読みながら決意を固めていると、調臣さんがふっと楽しそうな笑みをこぼす。

「やる気に満ちあふれてるねー、丹羽くん」

「はい! 早く一人前になれるように頑張ります!」

 燃える俺に、彼はぽろりと水を差した。

「知識が増えても、結局はセンスの問題だから、どう生かすかが大切だよね。頑張ってなるはやでそれも身につけてね! 編集部一同、期待してるから」

 一瞬止まる空気。

 何と応えたものか……。俺はちらりと視線で久呼さんに助けを求める。だが彼女もふいと目を逸らし、ぽつりと呟いた。

「センスまでは面倒見切れない……」

「ひ、久呼さぁん!」

 わかっている。わかっているけれど……本当にこの師匠のようになれる日が来るのだろうかと、不安がよぎってしまったのは否めない。

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