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SORA tabi NIKKI

【知らない記憶SS】知らない変更

 聞いた音声を文字にする。

 たったそれだけ。

 それだけの仕事なのに、悩みはつきない。

「……わー、く……」

 そもそも何の問題もなく聞き取ることのできるような、すこぶるクリアな音声など、ほとんどない。周囲の話し声や雑音が入ってくる。

 例えそれらが少なくても、レコーダーに紙がぶつかる音、メモ書きをする音、咳・くしゃみなどのありふれた音が、一番邪魔になってくるのだ。

 意外な落とし穴だった。だが、考えてみれば、紙がレコーダーにぶつかれば、集音の最も近くの雑音だし、咳やくしゃみは声の派生だ。 ノイズキャンセラの限界だってある。

「にーわーくん!」

 肩を叩く重みに、驚いて身体が跳ねる。

 思わず両手をあげたまま振り返ると、何がそんなに楽しいのかというほど満面の笑みを浮かべた調臣さんが後ろに立っていた。

「な、なんですか」

「もうお昼の時間だよ。きょうはガルガンチュアでいろいろ買ってきたから、一緒に食べよう。匂いだけで、腹が減って減ってたまらないよー?」

「あー、いつもすみません」

 向かいでノートパソコンを開いていたはずの調臣さんは、すでに鞄に荷物をしまい込んでいた。

「僕もコンビニ弁当ばっかりじゃ飽きちゃうしねぇ。ここなら仕事ついでに寄れるし、美味しいものも食べられるし、一石二鳥」

 そう言いながら、彼はテーブルの上に魅惑的な料理を広げていく。

 温まったスープがこっくりと薫り、キッチンのほうからも香ばしい匂いがただよっている。気付いた瞬間に、腹が快い答えを返した。

 こんがりと焼けたパイを久呼さんが持ってきたところで、昼ご飯が始まった。

「う、うまっ。何これ、ステーキが入ってる……? タマネギ甘っ。何これ、何これ。初めて食べます」

「美味しいよね。何かあるときにはこれを買うことにしてるんだ」

 彼は毎回のように手土産をもって訪れる。そのどれもが美味しいものばかりだ。

「調臣さんって、なんでそんなに美味しいものを知ってるんですか。そこは尊敬します」

「そこだけ、なんだ?」

 うっすらと寒気を感じ、俺は慌ててぶんぶんと首を振る。

「いえ、全部です。全部まるっと!」

「ふうん。まあ、詳しくはまた今度ね」

「そ、それよりですね、ちょっと悩んでることがあって」

「また? あんたいっつも小さいことで悩んでない?」

 久呼さんが呆れるのも無理はない。

 だけど、小さいことってなんだ。一つの問題がクリアできたら、新たな謎が浮かび上がるなんて、この世の常ではないか。

「で、今度は何につまずいてるの?」

 なんだかんだ言いつつも、彼女は面倒見がよい。ぶっきらぼうな口調なのに、些細なことも目配りをしてくれるのだ。

「ケバ取りで余分な語尾とかを省くことは慣れてきた気がするんですけど……話し言葉って、すごく文章が破綻してるじゃないですか」

「まあね。会話の三割ほどしか、言葉は役に立ってないという説もあるし」

「久呼さんの原稿を見ると、編集っていうと語弊がありますけど、言い回しを入れかえたりして話を通りやすくしてるじゃないですか」

「ああ、それがひぃちゃんの人気の一つでもあるよね」

「俺もいざやろうと思ったときに、どこまでなら許されるのか、わからなくなって」

 食事の手が止まる。

 美味しくて、次から次に口を福で満たしたいのに。

 久呼さんにとっては小さく見えるかもしれないが、つまづいてしまえば、立ち上がるまでは他に何もすることがない。だけど……。

「そんなの、口で教えたところでわかるものじゃないでしょう」

「そうなんですよねー……」

 フォークでパイを切り取るが、口へ運ぶこともできずにもてあそぶ。

「自分で掴まないとわからないんですけど。そうなんですけど……」

 パイの上皮が、具から滑り落ちた。無惨にくずしてしまった姿が、自分の未来に重なる。

 いつだって不安になる。

 久呼さんのような熟練者と仕事ができるのは、幸運だ。だけど、一方で苦しみを覚えてしまう。

「いつまでも掴めないでわからないままな気がしてしまって」

 突出した能力を持つ人と、凡庸な自分をどうしても比較してしまう。

 無駄なことだとわかっていても、そこで生じる落胆と焦りにむしばまれそうになるのを、必死に振り払う。

「言葉を変えてるわけじゃない。改変するわけじゃない。その文章の意味がわかりやすくなるなら、自分の思うとおりにやってみるのもいいんじゃないの? それが怖いなら、調臣の依頼だけをまずやってみたら」

 視線を上げると、久呼さんは澄ました顔で皿を見つめている。

「ひぃちゃん、それは僕の仕事がどうでもいいってこと?」

 冗談めかした調臣さんの言葉にも、素っ気ない応えを返す。

「ばか。そんなおざなりな仕事をしろって言うと思ってるの」

「まさか。ひぃちゃんは仕事に潔癖だから。いいよ、うちの仕事で挑戦してみれば」

 一足早く食べ終えた調臣さんは、紙ナプキンで拭った口角をにっと上げる。

「とーきどきいるんだけど、わかりやすくしようと思って自分の言葉で置き換えて、起こしをめちゃくちゃにしちゃう人。丹羽くんはそんなことしないもんね? そしてもしそんなことがあったら、真っ先にリテイク引き受けてくれるもんね?」

 目が笑ってない気がする。怖い。

「も、もちろんフィードバックはありがたいです! よろしくお願いします!」

「こっちこそ、よろしくね」

 そこでなぜか久呼さんが溜息をついた。

「…………怪しい」

 彼女に視線を向けたとき、調臣さんが立ち上がった。

 てきぱきと自分の皿をキッチンへ片付け、重そうな鞄を肩にかける。

「じゃあ、そういうことで、送っておいた仕事よろしくね」

「え、送っておいたって? な、何をですか?」

「何って、仕事に決まってるじゃないか」

 じゃあよろしくね。

 なんとも簡単な言葉を残して、彼は部屋を出て行った。

 俺は慌てて皿に残っていたものを口に詰め込み、咀嚼しながらマウスをいじる。メーラーを開いて、息を呑み込んだ。

「…………何がきてる?」

「…………三時間インタ、明後日中、です」

「……やられた」

「……はい」

 三時間っていえば、ええっと、六時間かける三で、ざっと十八時間分の作業量。プラスいま予定に入っているスケジュールの締め切りは変えられない。

 だからといって、久呼さんは多くの残業は許さないだろう。

 やはり調臣さんは手強い。味方にするにはこれ以上ない人だが、問題はふらりと気軽に厄災にも転じることだ。

 先ほどよりも深い息を吐ききった久呼さんは、決然と立ち上がった。

「やるしかないね。とりあえず明後日までのスケジュールを組み直す」

「俺も今の仕事、なるべく早く終わらせます」

 急いで机の上を片付け、パソコンの位置を仕事仕様に戻す。

 ヘッドホンを装着して、昼飯のために止めていた音声を再生し始める。

 それから二時間ほど経った休憩時、頭の片隅で、ふと思いついた。

「これだけ集中してやってたら、さっきの答え、掴めるかも」

 もしかして、それも調臣さんの策略のうちなのだろうか。

 それもあり得る……。崖下にたたき落としながらも、それがためになるように謀略を巡らせているような人だから。

「いや、ダメだ。だからといって、こんな横暴を許してはいけない!」

 まずは終わらせて、それから文句。

「よし!」

 気合いを入れ、再び音の波へと飛び込んだのだった。

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