バレンタインSS inコハルノート byコハルノートへおかえり
「こんにちはー!」
バレンタインデー当日。勢いよくコハルノートの扉を開くと、カウンターの中にいた樹さんが接客の笑みをすっと消した。
「もっと静かに入ってこれないのか、梅子?」
「サリュ、コウメ! 彼女の魅力の一つは、元気じゃないか」
ハーブティーをサーブしていたつぼみさんが、私をむぎゅっと抱きしめる。お店を包むハーブの香りに、甘いイランイランが混ざり合った。
常連さんが密やかに笑っている。私はそっと彼女の腕から逃れた。
「今日はバレンタインだから、これはお店から。お客さま全員に渡しているんだ」
カウンターに手を伸ばしたつぼみさんは、取り上げた小さな包みを、私の手に置いた。オーガンジーの巾着袋に入ったドライハーブだ。
「サシェ、ですか?」
コハルノートではポプリオイルを取り扱わないので、ポプリという呼び方はしない。カウンターに着きながら客席に目をやると、ちらほらと、お客さんの机にも同じものが見える。
「ノン、これはバスタイムのためのものだよ」
「お風呂に……まだ寒いですもんね」
なるほど。お客さんもすぐに使えるものだし、あまり気負わずにもらってもらえる。
古くなってきたハーブを躊躇なく消費するのにいいなあ。この袋を使い回して、家で作ってみよう。確かそろそろレモンバームが半年を過ぎる……。
「おい、梅子」
「小梅です」
機嫌が悪いのかと話しかけなかったけれど、樹さんの口調はいつも通りだ。ハーブティーを淹れる手をよどみなく動かしながら、樹さんは横目で私を見つめた。
「出発は来月末だろう? 準備は終わったのか?」
「はい。パスポートもビザも取りましたし、ホームステイ先の紹介もしてもらったし、あとは両替と航空券の受け取りと荷物のパッキングだけです!」
「ウーララァ……面倒なものは先延ばししないほうがいいよ」
「……本当に大丈夫か?」
つぼみさんが嘆き、樹さんの眉が心配そうに曇る。
大丈夫かと問い詰められるとそうでない気がしてしまうが、絶対に出発便に遅れることだけはしない。どうにかこうにか間に合わせてみせるけれど、連日の英語の勉強に、少しの癒やしがほしいというのが本音だ。
「大丈夫って言わないと。だって、あっちに行ったら一人で頑張らないといけないんですから」
「いっちょ前のふりしやがって」
「コウメ、そんなに意気込まなくていいんだよ。ホストファミリーは向こうでの家族だし、呼ばれたら私はいつだって飛んでいくよ」
横に座るつぼみさんが、私の肩に頭を載せた。
海外でハーブやアロマの買い付けをしているつぼみさんは、一年のほとんどを文字通り飛び回っている。私が呼んだら、本当にすぐに訪れてくれるだろう。
それを頼ってはいけないと思うけれど、いよいよ心細くなったときにはお願いしよう。泣きながら帰国するより、迷惑をかけてでも全うしたほうが、この人たちはきっと喜んでくれるから。
「連絡が取れないわけじゃないし。手紙だって、電話だって、インターネットだってあるし」
言っているうちに、本当にしばらくお別れなんだなという気持ちがこみ上げてくる。じわじわと声が濡れて、目が熱くなっていくのをこらえた。
鼻をすすりそうになったとき、ぽんと頭が叩かれた。
いつも慰めるとき、励ますときに、樹さんはこうして活を入れてくれる。
もうダメだ。
涙がこみあげた。
夢のために、頑張ると決めたのは自分だ。海外に行くことが、楽しみでもある。
だけど、いつも傍で見守ってくれていることが当たり前となっている人たちが、近くにいない。
悲しいときも、楽しいときも、同じ瞬間を味わうことができない。
甘ったれだと自覚してるからこそ、不安は大きい。
だけど、私は『あの人』の横に立ちたいから。
「樹、コウメをいじめないでおくれよ」
「いじめてるように見えるか?」
「泣かせたじゃないか」
「優しさの権化に何を言うか」
二人のやりとりに、私はぷっと吹き出してしまう。
こうやっていつも励ましてくれるコハルノートの人たちが、私は大好きだ。
「今日だって澄礼を外の用事に出してさあ、恋人たちの日なのに」
つぼみさんがぶーっと唇を突き出して抗議すると、樹さんがはんっと鼻で笑い返す。
「そのまま早く帰してやるために、自らカウンターに入ってるオーナーさまを褒め称えろよ」
「えっ!? そうなんですか?」
「うちのオーナーは、粋なことをするよねぇ」
「あ、そのお礼というわけではないんですけど……日頃のお礼として……」
昨日、紗綾と包んだチョコシフォンケーキを二人に差し出した。
早速開けた樹さんが、自分の口に一欠片放り込み、続けてつぼみさんの口にも放る。つぼみさんが「セ・ボン」と呟いた。
「俺からはこれ」
樹さんはキッチンから細長いグラスを取り出した。
紫・ピンク・白と三層のグラデーションが見惚れるほどで、一番上にローズバッド(バラのつぼみ)が一輪、載っている。それだけではこんなに香りはしないはずだから、ハーブティーにもローズを使っているのだろう。
「ど、どうやって作ったんですか!?」
「クイズ、どうやって作ったんでしょう?」
「えええー、ヒント! ヒントをください」
「おまえもこの『魔法』ってやつを、使ったことがある」
「魔法……あ、マロウブルー!」
ハーブティーを青く染めるマロウブルーは、酸に反応するとピンクに変わる。でも、私が使ったのはレモンだった。この白はなんだろう。
ストローを動かさないように口を付ける。口に流れ込んだ瞬間に答えがわかった。
「カルピスだ! え、あ、酸だから?」
「正解。餞別のハーブカクテルだ。帰ってきたら、酒で作ってやる」
だから無事に帰ってこい。
そう言われた気がした。
だけどこれ以上湿っぽくなるのは嫌だから、私はいま返せる一番の返事を顔に浮かべた。
「紅林小梅、一回り大きくなって帰ってくることをお約束します!」
樹さんが小さく「横に大きくならないようにな」と呟いたことは、聞こえないふりをした。