ホワイトデーSS ~二人の約束 byコハルノート
三月を待っていたかのように、春一番が吹いた。季節を運ぶ風は強く、服装も髪型も吟味しないと大変なことになる。
コハルノートの扉の前で、私は鏡を取り出して、前髪をチェックした。案の上ボサボサだ。手櫛で整えてからドアを開けると、私よりも先に風が入っていった。
定休日なのに、カウンターの中にいた澄礼さんは、私がドアを開けるのを知っていたかのように待っていた。
「いらっしゃい、小梅ちゃん」
いつもの笑顔。だけれど、それは私の想いを受け取ってくれてから、柔らかく色付いた。
きょうほど、その顔を見て泣いてしまいそうなことはない。だけど、涙をこらえて、私も頬を緩ませた。
「こんにちは、澄礼さん」
「少し遅くなるって、連絡してきた?」
「はい! 澄礼さんに送ってもらうから心配しないでって言ったら……」
母親が言っていた言葉は、到底口にできなかった。思い出しただけで、我が母ながら恥ずかしい。
「なに?」
澄礼さんは何でもお見通しという目でこちらを見ながら、エプロンを脱いで、カウンターから出てくる。
白いシャツはいつもと変わらないのに、澄礼さんはジャケットを羽織った。普段と違ってかっちりとした服装だ。
私は余計に顔が熱くなっていく。
「な、なんでもないです!」
「早めの予約を取ってるから、そんなに遅くならないと思うけど。……大丈夫?」
澄礼さんは自分の魅力がわかってない。
何気なく髪を触ることには慣れたけど、平静でいられるわけではないのだ。
ドキドキと荒い音を立てる私の心臓が収まることはないまま。澄礼さんは案内してくれたのは、立派な門構えのお店だった。
(た、高そうだけど……)
川越で有名なすき焼きのお店だ。家族でもこんなところに入ったことはない。
渡り廊下も、そこから見える日本庭園も、まるで時代劇のようだ。仲居さんに案内されたのは、掘りごたつの離れだった。
すき焼きを食べ終えて。手を合わせたところで、はっと気が付いた。
「す、すみません。どっぷりと味わってしまってました!」
慌ててお礼を言うと、澄礼さんはくすくすと笑っている。
「小梅ちゃんの美味しそうな顔を見てると、僕も幸せになれるよ」
私は肩を竦めた。さんざん食べておいてなんだけれど、桜エビでまぐろを釣った気分だ。
「これって、ホワイトデーのお返しなんですよね。こんな豪華なことしなくてもいいんですよ? 普通にお菓子とか、ハーブティーとかで」
一緒に過ごせるだけで嬉しいし、という言葉は呑み込んだ。だけれど、澄礼さんは嬉しそうにお茶に口をつける。
「もうすぐ小梅ちゃんはロンドンに行ってしまうから、和食っぽいものを食べさせてあげたいなと思ったんだ。僕のわがままだから、」
澄礼さんが私へと手を伸ばした。
「小梅ちゃんは気にすることないんだよ」
私の口角の辺りをちょいと突いて、澄礼さんはそのまま指を嘗めた。
(な、なんか付いてた!? って、それよりも、ゆ、指……)
たまらず私は、膝に掛けていたナプキンを乱雑に畳んで、テーブルの上へ置いた。
「ちょ、ちょっと、お、お散歩してきます!」
澄礼さんの顔を見ずに部屋を飛び出した。
お手洗いの鏡で火照りが収まったことを確認して、ようやく戻ると、澄礼さんはじっと庭を見つめていた。
鍋やお皿は、すっかり片付いている。
窓ガラスに反射した私に気が付いた彼は、
「小梅ちゃん、おかえり」
寂しげな目を私に向けた。
「す、澄礼さん!」
私は彼の隣へ駆け寄った。告げたい言葉がわーっと込み上げすぎて、何も言えない。
永遠の別れなんかじゃない。語学留学を含めて、二年半の予定。勉強するには短すぎるかもしれない。
だけど、しょっちゅう帰ってくることなんかできない。せいぜい年末と夏に一度ぐらい。
私にとっては長すぎる。
「わ、私、終わったらすぐ帰ってきます。澄礼さんに頼ってもらえるぐらい成長して、絶対帰ってきますから!」
言い募る私に、澄礼さんは薔薇の花束を差し出した。
(いつの間に用意したんだろう)
私は迷いながらも受け取り、香りをかいだ。
「……いい匂い」
「本当のホワイトデーのお返しは、こっちなんだ」
「お花、きれいです」
「何本ある?」
「えっと、一、二、三……十二本ですか?」
「ダズンローズっていうんだ」
十二本だから一ダースということ? 本数に何か意味があるのだろうか。
私は首を傾げた。
「一本一本に意味があるんだよ。信頼、感謝、誠実、希望、情熱、愛情、真実、尊敬、栄光、努力、永遠、幸福を、君に誓いますって」
音が遠くなる。鼓動が耳を覆い、何を言われているのか、実感を持てない。
固まってしまった私の手を、澄礼さんは優しく取った。
ぎこちなく目を向けると、澄礼さんは小さな箱を手に乗せた。そのまま箱を開ける。
小さな銀色の環が、光った。
「まずは、小梅ちゃんが帰ってくるのを待ってるっていう、約束の証」
「こ、こんなことなくても、私は」
澄礼さんは細い指で、私の唇を押さえた。
「指にはめてもいい?」
私がおそるおそる頷くと、澄礼さんは指輪を箱から取り出した。
「僕はね、小梅ちゃん。椿ちゃんのことがあってから、待つということが本当に怖かったんだ」
私の手を握り、指輪を通そうとしている彼の手は、微かに震えている。
「だけど、君のことを待つのは、怖くない。待ってる間は寂しくても、楽しみに待っていられる。いつまででも」
私は、何を言えるだろうか。何を言えばいいのだろうか。
「澄礼さんが私を信じてくれるから、私も寂しくても頑張れると思います」
足りない。もっと、もっと告げたい言葉。
澄礼さんを笑顔にできるもの。
「幸せを選んでくれて、ありがとうございます」
私の言葉に、澄礼さんは顔を背けた。
「そうか。これが……」
澄礼さんがなんて言ったかは聞こえなかった。だけど、きっと椿さんの残した言葉を想ってる。
以前だったら、妬けていたかもしれない。だけど、今は、嬉しい。
澄礼さんが前を向いているとわかるから。
私は澄礼さんの手を、ぎゅっと握りしめた。その手には、今もらったばかりの約束の証が光っている。